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社長あいさつ

家は人生の大半を過ごす家族の幸せを育む場所です

私達技術者はその職能と経験より最高に住みごこちの良い家造りを常に研究する努力を惜しんではならないと考えます。
30年以上の歳月をかけて培ってきた家造りの実績と経験を生かした最高の住みごこちと資産価値をご提供します。


生い立ち・今の仕事を志すまで

父親の蒸発

今まで誰にも言わなかった、いえ、誰にも言いたくなかったことをお話します。 
実は私の父親は、私が中学生の時に、蒸発してしまいました。
私と妹そして母を置いて忽然と消えてしまったのです。
父がいなくなってから母は生活費を稼ぐために夜の勤めに出ることになり、当時10歳年下でまだ幼い妹の食事や入浴、そして寝かしつけたあとから高校進学へ向けて受験勉強をする毎日でした。

そんな苦労をしている母親ですが、実の母親ではなく父親の再婚後の育ての親でしたので一生懸命生活のために頑張っている姿を見ていて子供ながらにとても心苦しい日々を送っていたことを記憶しています。


母親に楽をさせてあげたい

一般的に中学生、高校生のときは好奇心旺盛でスポーツや趣味などいろいろなことに挑戦したり
夢中になる盛りかと思いますが当時の私はそれどころではありませんでした。

とにかく自分のできることは将来裕福な生活で母親に楽をさせてあげたいという一心でしたので
そのためには高収入な仕事に就かなければと考えたのです。
当時はまだ子供ですので高収入な職業といえばお医者さんという発想で進学校の特進コースへ進み、
医系大学進学へ向け勉強漬けの毎日を過ごしました。

しかしその高校は私学だったこともあり経済的負担が大きく、大学も医系ともなると莫大な費用がかかることから
とてもその夢は現実的では無いことに気付き、やむなく断念することとなりました。
目標を失うと同時に自分さえ居なければ母親は実の娘の妹と一緒に今よりは楽な生活が送れるようになるだろうと考え
家を出ることを決意したのです。

夢だけは捨てたくない

たまたま父親の従兄弟が東京で新聞販売店を開業していたというタイミングもあって新聞配達業務をこなしながら学校へ行けるという新聞奨学生として当時通っていた岐阜の高校を2年で中退して都内の普通高校で1年からやり直す事となりました。
それは忘れもしない17歳の冬のことでした。

手提げの紙袋ひとつで煎餅布団一つしか無い隙間風の入る3畳間の下宿で初日の夜を迎えた時は不安と寒さで震えが止まらなかったことを思い出すと今でも涙が溢れてきます。

そして一日の生活はというと朝は3時に起きて4時から朝刊配達、帰ってくると6時過でそれから朝食をとって学校へ。授業が終わると一息する間も無く夕刊の配達が4時からで配達から帰ると6時に夕食。その後が本格的な仕事でミーティング、翌日配達する朝刊折込広告の組み込作業、集金、そして拡張業務までもが9時ごろまで続きました。それから風呂に入って宿題もやるわけですから毎日睡眠時間は4、5時間といったところです。 当然授業中は眠たくて仕方ありません。

でも、この経験が独立心というものを目覚めさせたかけがいのない経験となりました。 お金が無いことで夢を諦めざるを得なかった自分にとって、医師を目指すことは諦めたけど自分一人で生きていくという独立心とともに経営者になるという新たな夢を持つことが出来たのです。

もともと母親のために裕福になりたいという短絡的な発想で志した夢がもととなり経営者として独立するという新たな夢を持ち続けることが出来たのだと思っています。

そこで目標を立てました。「20代で社長になる」と。


自分の目指す仕事

学生時代はとても辛いながらも同じ境遇の仲間たちとの数年間は楽しいことも多く、
私の人生にとって一番充実した「青春」を生きた時期だったのかもしれません。

学校を出るといよいよ現実的な社会で経営者を目指すことになります。

最初は証券関係の仕事に就きましたが「自分の目指す仕事と何かが違う」という違和感があって長くは続きませんでした。
きっと大きなお金を動かす男らしい仕事がしたいという漠然とした想いから金融業界という、
子供時代に無謀にも医師を志したのと同様、短絡的な発想だったのかもしれません。

そしてそんな発想から次は不動産業界の仕事に就きましたが、この仕事は肌に合ったのか
不動産の賃貸、管理、売買仲介、分譲販売、企画まで一通りの仕事を経験することができました。
しかし独立しようと考えたとき、またもや「自分の目指す仕事と何かが違う」という違和感が不動産業にはあったのです。

私はもともと建築業の家系で、祖父は大工で材木商、父は建築設計の仕事でしたから幼い頃から材木に囲まれながら設計図面などを見て育ちました。
そんなDNAのせいかどうかわかりませんが、単なるサービスの対価としての手数料商売をするのではなく、
お客様のために自分が考えた物を造り、提供したいという「モノづくり」が「自分の目指す仕事」ではないかという想いに至ったわけです。

こうして目標通り念願の20代最後の29歳で現在の会社の前身である建設会社有限会社東洋プロパティを設立、創業することとなりました。

なぜ家をつくるのか

病気になる家

こうして独立は果たせたものの開業当初は実績やコネも無く不動産業時代に関わった知人に頼み込んでなんとか仕事を回してもらってやりくりする毎日が続きました。
少しづつ実績を積んで信用が得られるようになるとしばらくは大手賃貸管理会社から退去したあとの原状回復リフォーム工事を主に請負っていました。
そんなあるとき不動産会社からアパートの住人から水漏れするので見てほしいとのことで訪問したときのことです。
入居者はお母さんと5歳くらいの娘さんとの母子家庭のようでした。
漏水の件は蛇口のパッキン交換程度で大した問題ではなかったのですが、それよりも住宅に関わる者として見過ごすことのできない大問題を目にしたのです。
「お母さん、痒いよ」という声が聞こえたので目をやると幼い娘さんの顔や腕までもが真っ赤でどうやら酷いアトピー症のようでした。
室内を見渡すと壁の至るところにカビが発生しておりお母さん曰く不動産屋さんには何回も言ってるのに対応してもらえないとのこと。
このときふと随分と前に離れ離れになった母親と妹のことを思い出したのです。
母子家庭は普通に暮らしていくだけでも大変なことだとわかっていましたので子供が病気で苦しむのは母親にとって負担も多く辛いことだろうというのが手にとるように分かります。
住む家が原因で病気になるなんて...

修練の日々

その時から現場に携わる際には家の様々な問題点について関心を持つようになりました。
そして少なくとも自分が携わる家では家族が普通に安心して幸せに暮らしてほしいという想いが芽生えたのはその頃かもしれません。

日を追うごとに監督や職人を社員として雇うようになり、任せてもらえる現場の規模も少しづつ大きくなってきたその時、大事件が起こりました。

30代なかばで人生で一番頑張れる時。
早朝から深夜まで現場から営業先を飛び回る毎日。
忘れもしない平成7年1月18日、あの阪神淡路大震災の翌日です。深夜2時、自宅まであと数百mのところで居眠り運転による大事故を起こしてしまったのです。

幸いにして第三者への巻沿いは無く、自分の運転していたワンボックスが大破し顔面と全身を強打した私は病院へ運ばれ一命を取り留めました。
頚椎損傷を伴う重症でしたが全治3ヶ月で社会復帰することができました。
その間、家族や社員が社長不在の状況でも頑張って会社を支えてくれたことには今でも感謝の気持ちでいっぱいです。
人間というものは九死に一生を得たあとの生き方が変わると言います。 
少し宗教的な感覚ですが、仏様から「お前のやるべきことで人様の役に立ちなさい」と言われて生かされたような気がしました。

仕事に対する姿勢やビジョンに変化があったのはこの時期からです。
従来の仕事に取り組む姿勢は現場経験を積むことで仕事は覚えることができるので資格は必要ない、と考えていました。
しかし「家族が普通に安心して幸せに暮らせる家」をつくるということに自信を持って取り組んで行くには最低限必要な知識を持ち合わせていなければならないことに気付きます。

この建設業界では無資格で働くケースも多く存在します。
資格の有無だけで信用が決まるわけではありません。
しかしながら「家族が普通に安心して幸せに暮らせる家」をつくるには最低限の知識がなければ無責任だと思ったからです。

それから猛勉強して数年がかりで建築士、施工管理技士資格を取得しました。

家づくりへの想い

こうして基礎的な知識が備わってからは本格的に新築注文住宅を手掛けるようになっていきました。
このころには自分が提案、設計する家のビジョンは定まっていましたが具体的な作り込みはまだまだでした。

「家族が普通に安心して幸せに暮らせる家」には何が必要なのか?

その時思い出したのはまだ駆け出しの頃に出会ったあの母子家庭の家族のことです。
強烈なアトピー症で辛そうにしていた親子のことは忘れもしません。

その頃にはシックハウス法が施行されており、世の中では化学物質を放散する建材への規制がされるなど家が与える健康への影響に関心が高まっていました。

そこで化学物質過敏症やアレルギーに対して対策を講じた「マイナスイオンの家」を開発しました。
床下に調湿作用の高い調湿炭を敷き詰め、室内には建材から発散する化学物質を分解させるためマイナスイオン発生器を設置する仕様です。

それから10年以上の歳月をかけて外装材、屋根材、下葺材、樋、断熱材、床無垢材、壁漆喰、空調、耐震、制振、その他採用する建材や仕様について普通に安心して暮らせるということ以上の「最高の住みごこち」を実現するにはどうしたら良いか、ただひたすらに研究し改良を重ねてきました。

以前、住宅雑誌に注文住宅に関するアンケート調査結果を見たことがあり、こんな内容が紹介されていました。
建てた住宅会社を選んだきっかけは?という内容でした。
「家のつくりはどこも似たりよったりなので大手で安心できるこのハウスメーカーにしました。」
「建築家や工務店の建てる家は要望は叶うのかもしれないが価格が高くなりそうなのでこのメーカーにしました。」
「家づくりにこだわりがあるわけではないので予算内でおまかせできるこの住宅会社にお願いしました。」
「この会社の営業担当者がとても熱心にいろいろ面倒を見てくれたのでおまかせしました。」
「ひのきの家が良いと聞いていたのでモデルハウスを見学して決めました。」

残念ながら選んだ家の住みごこちに関して触れた回答はありませんでした。

このページの一番最初の出だしでこう書きました。
「家は人生の大半を過ごす家族の幸せを育む場所です」

お父さんは家族の幸せを願って家をつくります。
お母さんは家族の健康を願って家を守ります。
そして私はそんなお父さん、お母さんのために「家族が普通に安心して幸せに暮らせる家」を
そして更にその上の「最高に住みごこちのいい家」を追求し、つくり続けます。

株式会社東洋プロパティ
代表取締役社長 樋口 隆行

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